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『ハリー・ポッターと秘密の部屋』。飛行機の中で。
「かってに改蔵」で「ハリポタはメガネ少年の妄想!」なんてネタがありましたが、まさにそんな感じでした。僕には帰るところがあって、そこは学園で、両親とは本当は血がつながってなくて、ほんとうは僕にはたくさん手紙が来てるはずなんだけど妖精が隠してる。あの駅の、あるはずのないプラットフォームからそこへ行く汽車が走ってる。僕はあそこへ帰るんだ、ホグワーツ・イズ・マイ・ホーム!
すべて重要な事件は学園の内部でのみ起こる。世界でいちばんえらいのは校長先生。二番目はOB(ヴォルデモート)。学校の図書館には世界の秘密のすべてが納められている。学園内を彷徨する亡霊も女子トイレの幽霊(眼鏡っ娘)もちっとも怖くない。楽しい学園生活を彩るアクセントにすぎない。なんちゅうヌルさだ。
ようするに「外」はとるに足らない。学園には世界の秘密のすべてがある。学園はひたすら楽しい場所であり、賢い大人は必ず身方になってくれる。やれやれ。
しかしなんだね、魔法も怪物も、随分と無国籍な感じだねえ。既存の文脈を無視した引用つうか、新紀元社の本から適当に拾ってきたみたいな感じ。それこそゲーム感覚つうか。小難しい魔術理論もなければ、登場する妖怪の地理的歴史的文化的背景も考慮する必要がない。これ電撃文庫だろ。
まあそんなことはどうでもよろしい。重要なのはハーマイオニーである。原作と違ってギルデロイ・ロックハートに騙されてない(おかげでロンの存在意義がない)。原作と違って「汚れた血」の説明を自分でする。いきなり立ち上がるタイミングがいい。黙って聞いていていきなり、前フリも予備動作もなく、立ち上がって、一気にまくし立てる。この唐突さが、これが若さか、である。
あと、ぜってーコイツ状況を楽しんでる。「校則を四十は破らなきゃならない、とても危険な方法」と述べるアナタはなんでそんなに輝いてますか。「他に方法がない」? ウソだー。楽しそうなのを選んだんだー。
子供たちには子供たちの「秘密基地」があって、そこでかれらは、自分たちの世界を守るために、対策を練ったり、アヤシゲな薬を調合してみんなで飲んだり、そんなことをすることになっている。これはとっても正しい子供向けファンタジーだと思いました。あー確かにこりゃ楽しいわ。
膝小僧とか、膝頭とか、まあ色々語らねばならぬことは多いのですが、とりあえずこのへんで。ホグワーツの食堂の椅子の構造が卑怯だとか。跨ぎ越さなきゃ坐れないのでヒザが見えるのです。あと、ケーキ持つ手つきが!
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メルブラ。ようやく全キャラ使えるようになりました。ぶいにゃのだー。お兄ちゃんゲトー。
メカヒスイの空中ダッシュ(後方)がイイ感じで萌えます。
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メルブラ。「夜が明けたら」。
このルートがいっちゃん好きです。最初はこれがトゥルーエンドかと思った。
対等にド突き合えるってのはいいもんですな。
どうせなら7ラウンドくらいプレイヤーに戦わせましょうよう。もちろん1本取られたらゲームオーバーで。
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MELTY BLOODに手を出す。ノベルパート。ああ、これは良い。何かがモリモリと補給されていく。幻影の夏。ホログラム・サマー、ナイト・オン・ザ・ブラッド・ライアー。if Crazy Dream。なんてことだ。エトセトラ。
未だに妙な日本語や表現は散見されるが、味のあるテキストは良い。もちろん、テキスト単体で楽しい、なんてのは無価値であり、それはただ「幻影の夏」のリアリティを伝えるためにこそ存在意義がある。その意味でこれは十全だ。猛暑、ところにより嘘。夏というのは奇妙に現実感を狂わせるところがあるなあ、というあの気分、独特な文体はそのまま、慣れ親しんだ奇妙さへ。その橋渡しのために奉仕するのである。
シオン・エルトナムが可愛い。しばしば彼女のモノローグに付き合うことになるのだが、これが実にこう、いいヤツだ。可愛い、というのは、わかりやすいヤツだ、ということである。たかが数日間で遠野志貴に親愛の情を抱くには、こうでなければならない、という逆算から生まれた感がなきにしもあらずだが。つうか初心にもほどがありませんか。いいけど。ほっとけるかバカ。
しかしなんだね、新しい女の子と新しい敵、というこの展開はますます『天地無用!』じみてるね。
挌ゲー部分はなかなかに楽しい。たぶん大味。とっつき「あすか120パーセント」みたいであるが、習熟するとカプコンのマーヴルなんたらっぽくなるのではないかと。お嬢のヤクザキックには笑った。あと、アルクェイドが脚をあんまり見せないのがとてもよいと思いました。非常に今更ですが。
G秋葉に負けたところで今日は終り。
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モエかん開始。
なんか昔のDOSゲーじみた無茶な設定ですな。開始二秒で笑いましたよええ。
リニア萌え。このポンコツがっ! ロボット三等兵の分際で! 初めてレストランで食事した貧乏人のガキみたいな反応しくさって。ほんとうに感謝ばかりで。なにかにつけ、自分は過分に受け取っている、そういう態度です。見ている方はいたたまれなくなる。
あとリニアハンドとか。髪の毛の一部がなぜか手みたいになっててさ。
ギャルゲーの立ち絵はつまり表情であり、表情変化を補強するためには髪(ないしその付属物)と手が重要だ。落ち込んだときにはリボンもへにょっとなる。吉川笛子は髪の毛で感情表現する(星野架名『Psiクロン・シンドローム』)。手の表情については紫堂恭子『グラン・ローヴァ物語』を参照されたい。
その二者を同時に満たす萌えヴィジュアルを実現するのがリニアハンドである。ちなみに、感情表現以外には特に用途は見受けられない。茶杓を持ってたりする程度だ。
主人公は何しろここではいちばんえらいひとである。しかしまあ、所詮はド田舎である。つまり彼女たちはおおむね、敬意と親愛の絶妙なブレンドでもって接してくれるわけさ。まあ、ギャルゲーに出て来る連中なんて大抵いいヤツだから、他人に対する敬意と親愛は常識として備えているけれどね。これが心地よいか重荷かはコンディション次第。
しかしあれだ、何だか思い 出さねばならぬことが山ほどありそうな予感。ああ、俺は今度はいったい何を忘れてるんだ? なんか既に、おれがわるかった、という気分になってきているが。
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『満月をさがして』#9〜24。要するにDVDで出てる分だけ。あと『運命の日』。フルムーン、ラストコンサート!
新OPは満月のスクールライフにハァハァすれ、なのですよ。白タイツお尻ふりふりよりも燃えるとか言うんじゃねえこのド変態(誰に言ってる)。
戦慄の小学生ノーフューチャー死神変身自殺美少女記憶喪失シンガーソングライター……「あなたはなぜ歌えるの? 好きな人も、守るべきものもないのに」。もはや、どんな未来も希望もなく、夢はあらかじめ終りを宣せられている、モラトリアムと呼ぶにはあまりに充実した、苛烈なほど充実した日々よ。むしろ「どうしていいかわからんときが、いちばんおもしろい!」「来た! これが逆境だ!」と叫ぶべき、これはそうした物語だ。とっくに死んでしまっていた彼と、もうすぐ死ぬことに決まっている彼女のための、どうしようもなく終わっている物語、愛と死を煮詰めていよいよ大詰め! タクトが……タクトが……
ってのに来週は見れないんだよな。
12歳くらいの子供はもう世界の全てを知っていると思います。
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上洛。
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さてジャン・ロタールに言わせるとすべてはフィクションであり、だから「幸せ」とは「幸せなお話」以外のものでは、はなっからありえず、また、「怖い話」をおいてどんな「怖いこと」もない。というか、「お話」抜きに何かを怖がったり幸せがったりすることはありえない。
もちろん、こんなのは、「フィクション」とか「お話」という単語の多義性に頼っている。
いや、ウミイノシシがメキシコ湾流に乗って立ち泳ぎしながら北上する、というのも、お話なんだけどさ。
まあ、『フロレアール』のラストを見るに、もう少しメルンにも判るように話してもいいものを、と思わなくもない。まあ余計な感想なんだけど。意味内容の理解なんて飾りですよ。えらい人にはそれがわからんのです。
メルンの幸せは何? ご主人様と一緒にいること。うん、ところでこれは「好きな人と一緒にいるのが幸せである」という「お話」の中にいることなんだ。幸せとは「幸せについてのお話」のことだ。
え? そんなことはどうでもいいです? またわけのわからないことを言ってる? ひねくれ性はそう簡単に治らないんだ。ついでにいえば「ひねくれ性は簡単に治らない」という話は、僕にはたいへん有用で……ごめん。
もちろん、お話のなかの人物にとって、それがお話かどうか、なんてどうでもいいに決まっているさ。少なくとも幸せなときはそうだ。いつまでも幸せに暮すお姫様は、そんなことを気にしないものだ。
言い換えようか。それが「お話」だということがわかるのは(あるいは「お話」になってしまうのは)、それが自分とは遠くにあるときだけなんだ。良くも悪くもね。
お化けが怖い? あと算数も?
お化けはともかく、算数はどうしようもないなあ。
ただのお話なら怖くないよ。という話もある。それはまた別の話。
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『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』のDVDを観る。『スターシップ・トゥルーパーズ』とあまり区別がつかない。まあ、マクロスとはTV版のことであり、映画なんて飾りですけど。東浩紀はいろいろ言ってますが、TV版はずいぶんとまっとうな代物に見えます。今観ると。イデオンと同程度には。
TV版だとミンメイの位置付けもさほど特別ではない。反応兵器とかバリヤーの暴走とか、そのへんと同列である。なにより「プロトカルチャーの普遍性」ではなく「相互の文化的ギャップ」のウェイトが大きい。単純な科学力でみても、一長一短である。こうした点をすべて無視して、リン・ミンメイにのみスポットを当てた結果が、頭の悪いプロパガンダ映画(のパロディ)と似たり寄ったりになるのも無理はない。
ちなみに『マクロス7』には「リン・ミンメイが出て来る映画」という言及があるから、あの世界でもプロパガンダ映画だったのかもしれない。
それはそうと、9月11日は、ゼントラーディ軍との和平が成立した日なのである。
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フェイスレス司令が素晴らしい。彼は自分を無垢な被害者としか考えないし、なにより希望を捨てず、幸せになるための努力を惜しまない。「だって僕は自分を信じているんだもの」。
なんつうかあれだ、「世界の敵」ってカンジ? ブギーポップに殺されそう。あとあれだ、『インビジブル』。
ジョジョの吉良吉影は静かに暮したいだけだったが、それにしたって自分が何をやってるかくらいわかっていたはずだ。
女の子に癒しを求めるだけの「もてない男」が最大の悪役ってのにはびっくり。あと白面と違って、こいつはお天道様に胸を張って生きてしまえるはずである。だって無自覚なんだもの。うわあ。
つまり、彼の選んだ「地獄の機械」というのはむろんフィクションであり虚構であるわけですが。
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ええと、僕が悲劇について書く場合、用語はジョージ・スタイナー『悲劇の死』(ちくま学芸文庫)から、発想は柄谷行人「言葉と悲劇」(『言葉と悲劇』、講談社学術文庫)から、ほぼそのまま持ってきてます。たぶん。
あと、真琴シナリオについては、天野さんがなんだか予言者めいた確信に満ちていて、そのせいでギリシア悲劇まで頭が飛んでしまった、というのもあるかと。
「悲劇は言葉の両義性から生ずる」というのが、柄谷行人のいっていることです。
だが、これは言葉に限定しなくてもいい。ひとが、ある行為なり経験なりの意味を確定できないこと。そこからどんな物語が発想できるか、考えもつかないこと。結果から振り返ってみてはじめて、原因が存在すること。『オイディプス王』でもいいし、たまたま辱めた相手がディオニュソスだったために呪われる『バッコスの信女』を挙げてもいい。
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・妹はお姫様になれない
・お姫様になれない女の子は魔女になるしかない
・ゆえに、妹は魔女になるしかない。
この論証は正しい。
ちなみに、シスプリの場合。
・すべての妹はお姫様である
問題解決。
そんなわけで、ウテナを#26〜#38(最終話)まで。
TVアニメは一晩1クールが適量です。
もうずっとせんに、中将君が、劇場版ウテナを「あれはTV版最終回後のアンシーの話なんですよ」と話していて、そのことがようやく得心が行った。いつの話だよ。TV版は暁生さんの世界ですが、劇場版の世界は、既に暁生さんのいない(抹殺してしまった)アンシーの世界、ということになる。なんだか「教育実習」(『さよならを教えて』)を繰返してるようなアレですが。
以前、「共通のプロトコル」と書いた。
しかし、かれらは共通の認識へと辿り着くことはない。
「君は知らないんだ。君と一緒にいたことで、ぼくがどんなに幸せだったか」と、最後の最後に、ほとんど手遅れになってから、ウテナは言う。
あとは、笠井潔『バイバイ・エンジェル』のラストの矢吹駆と犯人の議論をもって、この作品の感想とかえさせていただきます。