
▼ http://sto-2.cside7.com/200309_3.html#29_t1
でも、ギャルゲやっちょるときだって「ゲーム」的ななにかを感ずるときはあるではないですか。 (ない? ないか? いや、あるはずだ)
なんというか「フラグが立つのが見える瞬間」ってない? そんなシステムが実装されてなくとも、ルート分岐ツリーが脳内に構成されていると実感する瞬間ってあると思うのだけど。 「来た! っっっここが分岐点!」 みたいな。
否定的。とりあえず三点。
そのいち。そういう瞬間がないとは言わない。だが、「非ゲーム的ななにか」を感ずるときも多い。たとえば「攻略」という言葉に抵抗を覚える(ことがある)。
そのに。『「ゲーム」的ななにか』ではなく『「ギャルゲー」的ななにか』(あるいは『分岐型アドベンチャーゲーム的ななにか』、『「ノベルゲーム」的ななにか』)であるように感じられる。少なくとも、無限定に「ゲーム」的ななにか、だという気はしない。あと、小説読んでる時にもフラグが立つのが見える瞬間がある。
そのさん。個人的にはこういう立場。分岐は事後的かつ遡行的にのみ意味をもつ、というのが正しいギャルゲー。ルート分岐ツリーではない。そこがクリティカルなポイントだったことに「後から」なる。「見える」のではなく「そのとき見えていなかった、ということを後になって悟る」というのが分岐型ギャルゲーの真髄。
思想的には、プレイヤーの努力によって何かが獲得される、というマッチョイズムをいかに回避するか、という課題をギャルゲーはになっている。かもしれない。だから、何かが「見える」ようになるのではなく、おのれの盲目性に気付く、というかたちが望ましい。ようするに、プレイヤーも主人公も成長してはならない。このあたりはもう好みの問題だし、他人の理解を期待してはいけない部分だけど。
「ゲーム」というと「上達」や「成長」や「攻略」や「目的意識」という嫌なものがついてきそうで、それは嫌だなと。
以下はあまり面白くない話。
ここですわ。
「ゲームプレイというよりも、『読書』という形式がふさわしい。」
でも、すぐ後で「とはいえ、小説の読書とノベルゲームのプレイのあいだには、物語の体験という点で決定的な差異がある」と来るわけだし。
あと、
かつて、マンガ評論が文芸評論とおなじ手法でなされていたとき(これは、いまでもそうかもしれない)「マンガはあくまでマンガなのだから、そこにある画やコマ割、記号表現などに言及しないのは片手落ちではないのか?」という疑問が呈されたときと同じくらい気になる。
文芸評論の手法でなにごとかを語るとき、どうしても抜け落ちてしまう重要ななにか、そういうものってあるんじゃないの?
マンガを語るときは「絵であること」、ゲームについて語るときは「ゲームであること」 それが抜け落ちやしないかな?
というのは一般論としてはわかるし、正当な危惧だとも思う。しかし、論の展開に付き合いもせずにそんなクリシェを述べ立てるのは、単なる連想でモノ言ってるというか、言葉尻を捉えて揚足を取る、ということにならないか。だいたい東浩紀がここで本当に「文芸評論の手法」をとっているのか、ということがまず検討されるべきだろう。
というか、ノベルゲームを「ゲームである」と言っちゃうと、それはそれで別方面から文句が来るのではないかという気がするわけです。ノベルゲームもまたゲームである、というのはそんなに自明なことではない。video gamesに含めるに異論はないが、たとえばTRPGあたりを含めた「ゲーム」に組み入れるべきかどうかは、たぶん自明でない。だから戸惑った。
東浩紀はノベルゲームを「ゲーム」とも「ノベル」とも等距離にある独立した一ジャンル(メタリアル・フィクション)と見做しているフシがあり、ノベルゲームという呼称はただちに「ゲーム」を意味するとはいいにくい。一貫して「ノベルゲームのプレイヤー」と述べていて、たとえば「ヴィジュアルノベルの読者」という言い回しが見られないことも一方で指摘されてよいのだが。
それと、「ゲームとして」語ってしまえば、こんどは「ギャルゲーであること」や「ノベルゲームであること」を閑却した議論になりかねない(例:超クソゲー)、という気もするのだけれど。
▼ 戯言。
一度バッドエンドを見てしまったら、そのことはもう一生取り返しがつかない。あるいは、「攻略順」に思い悩む。なぜなら、いちどその順番で接してしまった、ということはやはり、どんなことをしてもとりかえせないから。ギャルゲーマーとはそんな人々を言う。佐藤心/東浩紀のいう「体験の唯一性」は、こうした感覚を取り込めるだろうか。
▼ 「ゲーム」についてのメモ。 コスティキャンのゲーム論。
目標と資源管理と意思決定なんて言うと、夕飯の買物までゲームだということになる。えーと。プラトンの人間?
《これまで人間の定義として提出されたものは、いずれも定義としては失敗である。古代ギリシアですでに、「人間とは羽根のない二本足の動物である」というプラトンの定義に対して、ディオゲネスは羽根を抜いたにわとりを見せて「これが人間か」と言って反論した、と伝えられている。わたしは、もっと極端に、どのように定義しても完全な定義にはならない、と考えている。》(土屋賢二「人間を定義することは不可能である」、『われ笑う、ゆえにわれあり』、文春文庫)
あと「店に行って買物をしてくるゲーム」と「店に行って買物をしてくること」はどう区別するのか、とか。こっちは単なる思い付きですが。
「それ」と「それでないもの」を分けられないようなのが、「定義」なの?
ついでに。これはどうにもディオゲネス的なふるまいに見えるわけですが。
もっとも、ゲームの話をするとき、われわれにはそれが何のことかわかっている。少なくとも、それが夕飯の買物の話なぞではないことはわかっている。つまりは、それをそれと指示する指し示し(囲い込み)がすでに先行している(コスティキャンも、一般にゲームと呼ばれているものの内部で話を進めている)。だがそれは何によってなされるのか。
ウィトゲンシュタインは次のようにいっている。
《六六 たとえば、我々が「ゲーム」とよんでいる出来事を一度考察してみよ。盤上ゲーム、カード・ゲーム、球戯、競技、等々のことである。何がこれらすべてに共通なのか──「何かがそれらに共通でなくてはならない、さもなければそれらを〈ゲーム〉とは呼ばない」などと言ってはならない──それらすべてに何かが共通であるかどうかを見よ。なぜなら、それらを注視すれば、すべてに共通なものなど見ないだろうが、それらの類似性、連関性を見、しかも一つの系列全体を見るだろうからである。繰り返すが、考えるな、見よ! ……
六七 わたしは、このような類似性を「家族的類似」ということばによる以外、うまく特徴づけることができない。なぜなら、一つの家族の構成員の間で成り立っているさまざまな類似、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩き方、気質、等々も、同じように互いに重なり、交差しているからである。──だから、わたしは〈ゲーム〉はひとつの家族を形成している、といおう。
同様にして、たとえば数の種類も一家族を形成している。なぜわれわれはあるものを「数」と呼ぶのか。おそらくは、それがこれまで数と呼ばれてきた多くのものと、一つの──直接的な──連関性をもっているからである。そして、そのことによって、そのものは、われわれがまたそのように呼ぶ他のものとの、間接的な連関をもつようになる、ということができる。そして、われわれは、ちょうど一本の糸を紡ぐのに繊維と繊維を撚り合わせていくように、自分たちの数概念を延長させていくのである。しかも、その糸の強さは、何か一本の繊維が糸全体の長さに通っている点にあるのではなくて、たくさんの繊維が互いに重なりあっている点にあるのである。……》(「哲学探究」、藤本隆志訳、講談社学術文庫『ウィトゲンシュタイン』)
いや、さんざ既出ネタだけどさ。ちなみにドイツ語だと「ゲーム」はSpiele。英gameもむしろ「遊戯」。日本語でも「ゲーム」は「遊び」という意味で使われるから、そんなに気にしなくてもいいのかもしれないが。
□
ところでコスティキャンは「割合」という考え方を導入している。
《だから、単純にゲームかパズルかというのではなく、割合という発想が必要になってくる。クロスワードパズルは100%パズルだが「ゾーク」は90%パズルで10%ゲームだ、というように。》
だが、思うに、この言い方は単にずるい。これでは、「ゲーム」という概念を一度立てておけば、どんな現実の反例に対しても無傷でいられる。ついでに、「ゲームと呼ばれているが実はゲームではない」(だが、そもそもコスティキャンは一般にゲームと呼ばれているものの内部で話を進めているので、逆の「ゲームとは呼ばれていないが実はゲームであるもの」は存在しない)なんて言い方が許されるなら、もはやどのようにも言い抜けられる。予め反例を受け付けない。実作者の方法論としては有益だが、その域を超えるものではないことに注意しておこう。
割合について補足。思い出されるのは『網状言論F改』(青土社)における次のような会話だ。斎藤環は「男のオタクは(キャラの)所有を欲望し、女のばあいは関係性を欲望する」というテーゼで知られるが、東浩紀はそれに対し、ギャルゲーオタクは男性だがその欲望は関係性を志向することが多い、と反論。それに対し、
《斎藤 だからこの前、男も女も男女の混合物だという話をしたよね。抽象的な男と女をまず立てて、個人の男と女に関してはその配分の違いがあるといったでしょ。
東 ひどい! そんなご都合主義でいいのか!》(p190)
だいたいそんな感じ。
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最近にかぎらず『猫の地球儀』の感想を読み歩いていると、作者と作中人物の区別がついていないようなものに出くわすわけですが。なんでみんな「僧正」のセリフばっかり、あたかも作者の意見であるかのように取り上げるかなあと。まあ、あとがきを鵜呑みにするとそうなるのかもしれないが。
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『猫の地球儀』の話。
坊主は所詮クソ坊主にすぎない(最後の一言で露骨に示される通り)、ヤツの言っていることを重視するくらいなら、まだしも焔の最後の述懐に焦点を当てるべきだ。とりあえず参考。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/SARU/saru42.html#BOOK2
《「鬼は人の心が生み出したものだ」という人がいます。それはまったく正しいのですが、「勝手に生み出した」ものでは全然ありません。それどころか、我々は「鬼」を(我々が生み出したものなのに)、好き勝手に操ることもできません。「生み出す」ことも、いいえ「生まれ出る」ことをとどめることさえもできません。
鬼に出会うにはどうしたらいいのでしょう。わざわざ出向かなければならないくらいなら、実のところ「鬼」について考えることはありません。「私でないもの」について考えることもないのです。たとえば「我を失った」とき、鬼は即座に現れます。そして我々は、しょっちゅう我を失っているのです。たとえば、たわいもない口ケンカの最中。
「すまない、こんなこと言うつもりはなかったんだ」。言った後で、こんな風に「我にかえる」なら、その人は「たった今、鬼が現れたんだ」と言っているのです。もっとも鬼にはいろんな種類があります。
痴話ケンカに、一対の鬼が現れる場合があります。ここで相手を罵っているのは、アニマでありアニムスです。罵られ傷つけられるのは、当人達ですが。》
「罵られ傷つけられるのは、当人たちですが」「「内側」だの「外側」だの、述べ立てることは、まったく重要ではありません」。
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つまり、『MOON.』における郁未と少年の問題はそのまま「ぼくたちの種族と、君たちの種族」の問題になる。『狐はたくさんいるし、「力」は舞の家系だし、神尾観鈴が勝手に決めたゴールは、ちっとも彼女ひとりのものじゃなくなってしまう。あと 『ONE』はよくわからない。
ところで『こころ』の先生が、どう見ても個人的な事情で自殺するにもかかわらず、明治の終わりだの乃木大将の殉死だのと絡めなければならない、みたいな話もあるのだが、こういうのがメタ的な何かと呼べるのかはちょっとよくわからない。
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http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20030915#p1
たとえば、自分が死んでいるのに気付かない幽霊というのがいる。『シャーマンキング』のミュンツァー博士とか。
「自分はここにいるだろうか、いないだろうか」という「存在論的な不安」ってのは、つまるところ「自分は実は幽霊なんじゃないか」と疑ってしまうのに似ている。
これはそれなりにメジャーな感覚だと思う。恐怖マンガではけっこう見かけるシチュエーションだし。タクシーの運転手が、乗せた客が実は幽霊なんじゃないかと訝しむんだけれど、実は死んでいたのは当の運転手のほうだった、とか。
つまり、自分がいま何をどのように感じていても、それさえも邯鄲の夢かもしれない。ぶっちゃけ『トータル・リコール』や『マトリックス』あたりと、感覚的にはそう遠くない(曖昧な言い方ですが)かもしれない。もちろん、そうでないかもしれないが。
追記:『トゥルーマン・ショー』のことを忘れてました。どうでもいっちゃあどうでもいいんですが。
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ポポロクロイス#18〜最後まで。
「風の呼び声」。ほんとにやっちゃったよ。
MK2氏のポポロクロイス話はこっちは残ってるみたい。
個人的なことを言えば、10歳のころの自分を顧るに、ヒュウを浅墓などととても言えたものではない。
ピエトロが旅に出たのは、ポポロクロイスの国を取り戻すためだったのだけれど、もちろん、10歳の子供はそんなことを成し遂げない。ゲームじゃないんだから。
あと、ガミガミ魔王ってのは割とこんな感じ。そこで「女の子を守るのが男のロマ〜ン!」と言い切ってくれるじーさんがいる、というのは、救い以外の何者でもないわけで。
ヒュウはピエトロと一緒にいたいだけだ。が、「そんな些細で許されたってかまわなそうなキモチが不釣合いなほど重くて悲劇的な何かを呼び込む」。もっとも問題はむしろ別のところにあって、ピエトロはヒュウの気持を決して理解しない。これが相思相愛なら世界に罪を帰せば済むところだが、事態はもう少し複雑でありうる。ピエトロはしかしヒュウのことはとても大切に思うし、愛は負けても親切は勝つ。
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「選択はもうしたわ。あなたがここへ来たのは、選択した理由を知るためよ」(『マトリックス・リローデッド』)
益体もないことを色々と。
たとえば『はぷにんぐJOURNEY』だと女の子の顔アイコンをクリックすれば、その子に会えることになっている。けれど『Kanon』だと、夜の学校へ行くことを選んだ時点では、舞のことなんか知りもしない。つまりはそういうことだ。ある種の選択肢においては、選択の意味は事後的に決定される。厳密にいえば、そもそもどれが「選択」であったのかさえ判らない。ギャルゲーのプレイヤーが行う「選択」とはそういうものでありうる。《「選択」は常にすでになされてしまっている》(斎藤環「メディアは存在しない 5 ゴースト、または複製に抗う残余」、『InterCommunication』No.46、NTT出版)というわけだ。
つまりはこういう話。死エロはいつ読んでも正しいなあ。
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違うかな?
正直、どうしてこうも自明に「ゲーム」といえるのか、そっちの方がわからない。
「メタリアル・フィクションの誕生」についていえば、主題となっているのは小説とノベルゲームの差異であり、「読者」とゲームの「プレイヤー」との相違を前提として、それぞれにおけるメタフィクション性の意味の違いを論じていたはずだが。
ゲームへの目配りが不十分であるにしても、読書と同一視しているなんて言われる筋合いはなかろうに。
ちなみに僕は、いきなり「ゲーム」って言われると戸惑う方。そんなこといったって、シューティングもアクションもRPGもSLGもカードゲームもボードゲームもゲーム理論も言語ゲームもテニスの試合も「ゲーム」であるわけで。どうも何を言っているのかわからん。『雷電』やんのも『Kanon』やんのも等しく「ゲームプレイ」と称するなら、そっちの理由を聞きたいくらいなもので。
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『ポポロクロイス物語』#15〜#20。
ところで、ヒュウはけっこう可愛いし魅力的なのでピエトロ君はもう少しドキドキしなさい。つまり内面を描写されてしまうから彼女は愚かにも浅墓にも我々には見えてしまうので、ふつうに他人として見る分にはまた違ってこなければならない。
17話のサブタイトルが「海辺の楽園」である。女の子と男の子が、海辺に小さな家を建てて暮らすお話だ。いやこの程度の長さを「暮らす」と呼んではいけないような気もするけれど、とにかくそういうの。そういえばMK2氏も「暮らす」って書いてらしたなあ。《ヒュウとピエトロが束の間、南の島っぽい海辺で笑って暮らすという話》(MK2氏の日記20000215、現在は参照不能。以下引用はすべて同じ)。
むろん僕がポポロクロイスについて語るときは、MK2氏の文章が常に念頭にある。たとえばこれだ。
《『ポポロクロイス物語』がやっぱり、ものすごくおもしろいです。
なんというのか、なんであんなファンシーな絵で、あんな人の心の痛いところを描かなければならないのかが理解できませんが、でもそれはそれとして、あの心の痛み、 闇、みにくさ。ああいうのは見ていて非常に萌えます。萌えで片づけていいのかって気がしないでもないけど。
とにかくヒュウの頭の悪さ加減。自分のことしか考えてない加減。ピエトロのやさしさ加減。なのに鈍感である加減。
すべてがいいあんばいに心にひりひりとしみてきて、もう平静な心持ちでブラウン管を見ていられません。
MK2は、実に浅はかで愚かなヒュウが大好きです。》
というのは、先月書いた序盤の感想の元ネタといっていい。
MK2氏は次のようにも書いていた。
《ところで、MK2は、以前にも日記に書いているのかもしれないのですが「楽園」というイメージにものすごくひかれます。つーか、書いてたかどうかいま確認してきます。
確認してきました。あまりにテキスト量が多いので断念しました。
楽園は、悲しい場所です。楽園は永続しません。
ピエトロとヒュウが作った海辺の家を見て、MK2は「これは楽園だ」と思いました。ピエトロは楽園が永続しないことを知っています。ヒュウはもちろん、知りません。
永続する楽園はないということを知りつつも、MK2はそれを祈らずにいられません。とうとつにエロゲーの話に移行しますが、『加奈』ですね。あれのベストエンドはつまり、永続する楽園です。いちおう加奈は、強くなるために家を出ようとしますが、そのことまでひっくるめて、あんな嘘くさい世界は成立しません。だからこそMK2は『加奈』 の感想のなかで「頭の悪い世界」呼ばわりしているのですが。
楽園には時間の経過があってはならない。時間の経過はすべてを変えるからです。人は老いる。知見も増す。
知る、ということはいいことのように思えますが、一面ではよくないことです。知ってしまったとき、それに直面することを避ければ、それは卑怯ですし、いつかはその反動 がやってきます。MK2は、知っているのに直面するのを避けていることがいっぱいあるので、卑怯です。だから、それがいかによくない結果を引き起こすか、知っています。
知らなければいい、というものでもありませんが、知りたくないのに知ってしまったことがあまりに多いとき、人はどうしようもなく強くなることを要求されます。そうでなければ虚無になる。
なにも知らないで、ひとつの場所で、ずっと笑っている。
少年と少女は、その場所が好きだ。だれにも干渉されない。遊び道具はいっぱいある。
昨日は楽しかった。
今日は、楽しい。
明日は、きっと楽しい。
一年後は、いまと変わらず楽しい。
十年後になっても、背が伸びない。肉体も変化しない。人を殺したいと思わない。性器や肛門や唇や舌や粘液をなめたいと思わない。
信じるっていう言葉はない。
愛するっていう言葉はない。
それ以外の感情がないから、定義する言葉がない。》
この文章が記憶に残ってしまったのは、僕がやはり「楽園」という言葉なりイメージなりに随分と心惹かれる人間であるからだろう。そうなるについちゃあ、発端はいずれ『南海奇皇』の「楽園は、そこにある」あたりに違いないのだが、たぶん決定的だったのは『EAT-MAN』#11「楽園」(ちなみに『ポポロクロイス』と監督が同じ。ついでにいえば主人公ボルト・クランクの声は江原征士で、つまり白騎士さんである)ではないかと思う。あと挙げるとすれば長谷敏司『戦略拠点32098 楽園』(角川スニーカー文庫)だろうか。
そして上記のMK2氏の文章を読んだ直後には『AIR』があり、遠野美凪ルートの駅前楽園にけっこうな勢いでのめりこむことになるのだが、それはまた別の話。
楽園とは、ごまかしの上に成り立つ。あるいは(意図的な)忘却の上に成り立つ。ようするに束の間の安息である。だが、誰もがそうと知っているわけではない。少なくともヒュウは知らなかった。でピエトロはそもそもそんなものを必要としない。引用を続けます。
《ピエトロはどんなときも「自分のやるべきこと」を見失わない、あるいは見失うことができない少年で、またやさしい心の持ち主なので、ヒュウの独善性とかそういうのが理解できません。理解できないながらも、ヒュウのことを切り捨てることもできないわけです。
ヒュウは、ただピエトロと一緒にいたい。
ピエトロは、その提案を、受け入れるわけにはいかない。》
《ヒュウは最初、全能の子供としてあの世界に現れたわけです。
子供は、ある意味高貴です。世界を全部所有していますから。子供の世界は、狭い。そしてその狭い世界のなかでは、子供は最優先に庇護されるべき存在です。だから、自分以外にこの世に大切なものがある可能性など一顧だにしない。する必要がない。
ヒュウは最初、まさしくそうした状態だったんです。》
だが物語は無情にも、ヒュウにピエトロを大切なものと思わせるように仕向ける。序盤における白騎士との会話の作為的なこと! この番組のスタッフときたら、まるで秋山瑞人みたいにひどいやつだ。ところで、浅羽が伊里野にちゃんと惚れるあたりが、『イリヤの空、UFOの夏』のヌルいところです。閑話休題。
《「おまえは、知ってしまったんだ」
ガミガミ魔王はヒュウにそう言いました。
このセリフを聞いたとき、MK2は戦慄を覚えました。
そう。高貴な子供だったヒュウは、ピエトロに出会って、知ってしまった。
知ってしまったからには、求めるしかない。
しかしヒュウはまだ、知らない。求めるからには代償が必要なのだと。
この世界は、さびしい無数の人間で構成されているのだと。
この世界は、それを求めている無数の人間で構成されているのだと。
この世界は……きたないのだと。
あるいは、たとえようもなくきれいなのだと。
ピエトロは、それを知っています。知っている人間は、年齢に関係なく知っている。だから、ピエトロはヒュウを前にして困惑するしかない。「それ」を求めて泣き叫ぶ子供であるヒュウを目の前にして。泣いてもどうにもならないんだということを、説明できる言葉をピエトロは持たない。》
正直、最初に読んだときは(つまり『ポポロクロイス』を観る以前)随分と大袈裟な感想なのではないかと訝しんだが、実際に観た後だと得心がいく。
でもやっぱり、ピエトロが朴念仁なのがみんな悪いんじゃないかとか、その程度の話である気もするわけで。もしくは、ヒュウはさっさとガミガミ魔王と結婚して幸せになっちゃいなさい。面倒臭い。
▼
『ファウスト』Vol.1について少し。まあ、掲示板にも走り書きしたけど。
「ジェットストリーム・トーク・セッション」
滝本竜彦が、村上春樹の主人公は不自然なまでにモテるくせに誰も文句は言わない、あと『ノルウェイの森』で下半身が昂奮した、といったことを話していたけれど、それは小谷野敦が言っている。最近だと『反=文藝評論』。ちなみに小谷野敦の批判の射程は『暗夜行路』や『罪と罰』にまで及んでいて、要するに主人公は周囲にチヤホヤされすぎだ、なんでラズミーヒンやソーニャはそこまでラスコーリニコフを気にかけやがりますか、といった話になる。
もひとつ。
滝本:むしろ僕は主人公が成長するとムカつくわけです。「テメェ、なに日和ってんだよ!」と。
いいこと言うなあ。
ギャルゲーの主人公は成長しません。ただ「思い出す」のみです。そしてそれは正しい。
「新本格魔法少女りすか」
戯言シリーズのが萌えるんですが。
とかいいつつも、手をつないでテレポート! ってのはやはりツボです。あと小学生。
「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」
わかんない。読み易いけど。
「赤色のモスコミュール」
巻末の東浩紀のコメントに同意。他人に薦めるなら『水没ピアノ』か『クリスマス・テロル』からかなあ。これは最初に読むべきではないと思った。
「メタリアル・フィクションの誕生」
ここ最近のうちの日記の話からして、やはり個人的にポイントとなるのはこのへん。
《……小説の読書とノベルゲームのプレイのあいだには、物語の体験という点で決定的な差異がある。前者があくまでも単一の物語を辿る体験であるのに対し、後者は、ゲームというジャンルの本性上、複数の物語と結末をランダムに往復する体験にならざるを得ないからだ。そしてこの特徴は、シナリオが重厚で複雑になるほど、ノベルゲームの製作者に根本的な矛盾を突きつけていくことになる。ゲームでは、主人公は、幸せになることもあれば不幸になることもある。ヒロインは、生き残ることもあれば、死ぬこともある。そのような条件のなかで、作者は、読者に対して、はたして本当に固有で単独的な感動を与えることができるのか。》
『動物化するポストモダン』では、とりあえず
《……したがってそれはいくらでも再現可能だが、見方を変えれば、ひと振りのサイコロの結果が偶然かつ必然であるという意味において、やはり必然であり、再現不可能であると言うこともできる。大きな物語による意味付けを運命だと考えるのか、有限の可能性の束から選ばれた組み合わせの希少性を運命だと考えるのか》
という話だったが、ここでは佐藤心の議論を参照して、プレイヤーの体験そのものは一回きりの固有のものだから、それを作品内に繰り込むことによって解決できる、といった仮説にとりあえず依拠しつつ話を進めている。
正直いって、Ever17みたいなのは洗練どころか野暮の極みなんだけどさ。そこまで言わせると野暮だ。Azelやガンパレも野暮だが。『水月』や『sense off』はボーダー。個人的には、隠喩のレベルを超えると感情移入は阻害されます。『臭作』と選ぶところがありません。やはり『Kanon』ぐらいにとどめておくのがイキってもんです(鍵っ子)。いや感情移入ってのは一概にいいにくい厄介な概念だと思うんだけど。 ことは小説/ゲームの差というより端的にテクストの差で、つまり小説のメタフィクションが、読者に対し告発/審問ないし議論やら問題提起やらの語法で語りがちなのに対し、ゲームだと、受け手に対しては、歓待と感謝の語法で語られる、という語り口の差でしかなくて。まあ、仮にそうだとしても、どちらを許容しやすいか、という点にジャンルの差が出ているのかもしれませんが。
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ああ、つまり。秋山瑞人が唯物論者であるのが気に食わないわけか。人間は歴史を作る、ただし思い通りにではない。与えられた歴史的条件の中で云々。受動感情は乗り越えることができず、ひとは徹底して自然史的な条件のもとにあり、それは解決することも取り除くこともできない。誰しも世界の外側に飛び出して行くわけにはいかんのだ。
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「脳内妹」といえば武者小路実篤! 『お目出たき人』!
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夏葉薫さんの『猫の地球儀』評を読む。
そういえば秋山瑞人は「真実」(客観的な)に無頓着だ。いやたしかに、聞いてビックリの「世界の真相」みたいな真似はやるんだけど(EGとかイリヤとか)、しかしたぶん重点は「ビックリ」の方で、「真相」じゃない。二つの異なった世界観さえあればよく、せめぎあう緊張感さえあれば真理性という公準は必要ない。『イリヤの空、UFOの夏』でも、必要なのは日常/非日常の対比であって、宇宙人が本当に攻めて来てるのかどうかはなくてもハナシは成立する。まあ、本当だってことにしなければ浅羽と読者が可哀相なのでそうしといた、ぐらいなものだ。
もっともこういうのはフィクションならば当り前の話で、なんとなれば、作家は「真実」をどちらの側に置くこともできる。だってフィクションだから。エロゲーから例を挙げるけれど、たとえば『YU-NO』のテラ=グラントにおける革命家。そこでは荒唐無稽な迷信じみたものが世界の「真実」であり、革命家の唱える合理的科学的な世界観こそが全くの誤りだった。
真実それ自体への冷淡さは別に珍しいものではない。たとえば小林秀雄は次のように書いている。いや小林秀雄て。まあよい。
《整理する事は解決する事とは違う。整理された世界とは現実の世界にうまく対応する様に作り上げられたもう一つの世界に過ぎぬ。俺はこの世界の存在を或は価値を聊かも疑ってはいない、というのはこの世界を信じた方がいいのか、疑った方がいいのか、そんな場所に果てしなく重ね上げられる人間認識上の論議に何の興味も湧かないからだ。俺の興味をひく点はたった一つだ。それはこの世界が果して人間の生活信条になるかならないかということである。人間がこの世界を信ずる為に或は信じないために、何をこの世界に附加しているかという点だけだ。この世界を信ずるために或は信じない為に、どんな感情のシステムを必要としているかという点だけだ。一と口で言えば何の事はない、この世界を多少信じている人と信じていない人が事実上のっぴきならない生き方をしている、丁度或るのっぴきならない一つの顔があると思えば、直ぐ隣に又改変し難い一つの顔がある様なものだ。俺はこれ以上魅惑的な風景に出会う事が出来ないし想像することもできない。そうではないか、君はどう思う。》(小林秀雄「Xへの手紙」)
なんだかこのままそっくり『猫の地球儀』の感想にしたいくらいの代物である。丁度或るのっぴきならない一つの顔があると思えば、直ぐ隣に又改変し難い一つの顔がある。
実を言えば、スカイウォーカーの側にのみ「真実」がある、という言い方も早計で、物理的科学的客観的な真実と、社会的心理的な真実の二つが示されている、と見ることもできる。そして幽は前者に依拠するがゆえ、「おぬしのロケットは夢やロマンを噴射して飛ぶのか」と言われるともう、夢やロマンでゴリ押しするわけにはいかなくなる。坊主は相手の属性に適した攻撃を仕掛けただけだ。
そもそも幽は単なるお話好きでもよかった。地球儀の話を聞いているだけでもよかった。そして「真実」とは無縁の衆生であって差支えなかった。それが「真実」を要求する(同時にスカイウォーカーという具体性を要求する)のは、円が殺されたことによる。幽は決して世界の「真実」を知っているからそれを選んだのではない。円を殺した連中の言っていることは間違っていなければならない、真実はその逆でなければならない、と、まず決めてかかったのだ。
スカイウォーカーについてはよくわからない。たまたま目標と手段が一致しただけの連中で、動機も信念もそれぞれ異なるかもしれない。もし真実と合理主義を条件とするなら、朧がたぶん最後のスカイウォーカーらしいスカイウォーカーで、幽がスカイウォーカーになったのは何かの間違いのようなものかもしれない。まあ自分で勝手に言ってるだけだし。
あと、反社会的じゃない方法で地球儀を目指す連中がいたとしても、スカイウォーカーとは呼ばれないだろうからこの作品では前景化しないだけの話ではないかと。少なくとも、「真実」をほぼ知りつつも、社会に適応してる奴はいるわけだし。
ちなみに悲劇として見るなら、容易にオルタナティブが見つかるのは欠陥どころか必須である。『リア王』でもなんでもいいが、悲劇の主人公とは、ことさらに愚かな選択をしてしまう連中をいうのである。他の選択もありえたはずだ、しかし現にこうなってしまった、というわけだ。それを必然と感じるのが悲劇を鑑賞するということであったはずだ。
《災厄の原因が現世のものであったり、葛藤が技術的ないし社会的な手段によって解決できたりする場合には、深刻な劇ではあっても悲劇ではない。離婚についての法律が緩やかになっても、アガメムノンの運命は変わらないし、精神医学はオイディプスの問題を解決してはくれない。しかし、経済関係がもっと正常になったり、鉛管工事が改良されたりしたら、イプセンの劇に現れる重大な危機のいくつかは、たしかに解決できる。この区別はよく心に留めておかねばならない。》(ジョージ・スタイナー『悲劇の死』)
《よいか、いつの時代でもそうだが、世の中には二種類の猫しかおらん。
不可能なことには興味のないやつと、不可能なことにしか興味のないやつじゃ。》
ところで『イリヤ』だと「いつの時代でもそうだが」という話につなげられないのである。まあ、作品としての優劣とは別に。ナイトとハルカの両方に「血の記憶」を与え、幽と焔の双方に「夢」を与えた作家も、『イリヤ』では特定の社会状況と立場を超える契機を持たないのでして。ラストシーン(エピローグ前の)はちょっと微妙なんだけど。
▼
秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏 その4』再読。
ラストシーン(エピローグじゃないほう)。伊里野は決して、敵と戦うために飛んでいるのではない。浅羽を守るため、と言ったけれど、もう浅羽のことなんて忘れているだろう。少なくとも、そんな経験的な諸条件はもう二次的なものでしかない。空は伊里野のもので、彼女はそこに帰っていく。それがすべてだ。もとより人は特定の社会的状況の下で生きるよりないが、しかしそこに収まり切るというものでもないし。悲劇作品の主人公の運命は当人のもので、原因となった外的条件はかえって付随的なものと感じられねば悲劇とは呼べない。このへん説明するのはめんどくさいので小林秀雄「悲劇について」でも読んどけ。
それを犠牲と呼ぶな。《何人も、何人といえども、彼女のことを泣く権利はない》(カミュ『異邦人』)ってやつだ。なんか観鈴ちんの時と似たようなこと言ってますが。
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転叫院さんの『ため倫』評。
いや内田樹も、「断定するひとはバカである」という知見を信奉しつつ「『断定するひとはバカである』と断定する」という「危険を犯す」(晶文社『期間限定の思想』。参考)人ではあるわけですが。あと『ため倫』にも「いまこう語っている私の言葉を信じるな。」(「自由主義史観について」)。上のほうの引用個所のすぐあと(p182)でも「それは私の書いているこのテクストも例外ではない」。性的欲望が性制度に媒介されたフィクションだ、と述べたところで、だからこそ言説はそこから逃れられない、ということになるだけなわけだ。
内田樹はたしかに、「ふつうそのような危険は犯さない」「周りの人がそれをどういうふうに眺めるだろう、ということである」(p248)と述べはするが、しかし、「自分は敢えてそれをやる」し「周りの人がどう眺めるかは予め先取りしておく」。
これらが何を意味するのかはよくわからないけれど、ともあれ『「よりまし」なフィクションを考えたり、沈黙してしまったりする』(いや内田樹がそうだと転叫院さんが書いているかというと微妙なのですが)ほどナイーヴではないと思う。古だぬきだし。
なにしろ『ためらいの倫理学』という書物からして、大半が「なぜそれについて語らないか」といいつつそれについて語る、という構成になっているのであり。
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『痕』についての総括。『To Heart』とのあいだの切断について。いや、9日のやつ書いてたらなんとなく思いついたので。
ひところは『痕』をギャルゲー呼ばわりすると怒る人がいたわけだが、その言い分はわからなくもない。『痕』は全体のストーリーが見えてくる過程を楽しむ作品であり、個々のヒロインのシナリオはあくまで従属的なものにすぎない、という評価が昔はあった気がする。記憶違いかもしれないが。
ところで、東浩紀は次のように書いている。
《作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、そのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情移入し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾と感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。
このような解離的な心の動きは、もしかしたら読者によっては理解しにくいものかもしれない。近代の小説においては、主人公の小さな物語は、必ずその背後の大きな物語によって意味付けられていた。》(『動物化するポストモダン』)
東浩紀のいう「ノベルゲーム」はほぼギャルゲーのことだが、ここで述べられているような「解離」は『痕』には存在しない。なんとなれば、東浩紀の論における「解離」とは、まず、《ポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、とくに繋げることなく、ただバラバラに共存させていくのだ。分かりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学ぶのである。筆者は以下、このような切断のかたちを、精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼びたいと思う。》と言及されるようなものだからである。どういうことかって?
ギャルゲーをめぐるぼくらの文脈では、この「ある作品(小さな物語)」とはすなわち個々のシナリオに相当する。そして『痕』はそれを「世界観(大きな物語)」に結びつけることによって、高い評価を得た作品だといえる面がある。柏木姉妹のそれぞれとの二者関係の物語は、鬼と宇宙人と前世をめぐる、あるいは柏木家の血族をめぐる因縁や「父と子」、といった、より大きな関係性や世界観を要請し構成する。いってみれば『痕』は近代的な作品だったわけだ。
だが「ギャルゲー」と呼んでも誰も怒らない『To Heart』では事情は異なる。たとえば神岸あかりと宮内レミィはともに浩之の過去に深いかかわりを持つヒロインであるが、それぞれのシナリオで呼び出される「過去」は、互いに関連しあうことも、あるいは藤田浩之という人格総体を志向することもない、単に目の前のヒロイン(のシナリオ)のためだけのものだ(『雫』と比較せよ)。そして同時に、『雫』や『痕』のような「トゥルーエンド」をすでに持たない。
つまり『雫』『痕』では、ヒロインもエンディングも複数あるにもかかわらず、ただひとつの「トゥルーED」があり、ユーザーもそれを欲したわけです。もっとも『痕』は実質的には一本道である、という言い方もできるわけですが、ここではちょっとパス。
そして「トゥルーエンド」は実は「もっとも必然的に思えるエンディング」であり、同時に「もっとも(固有の)感動が得られるエンディング」を意味した。逆にいえば、固有の感動じみた感覚さえ得られれば、複数化が可能だ。それにユーザーはどのキャラを好きになってもいいのだから、「ワリを食う」キャラがいなくなる、ということを目指すべきだ。そして(東浩紀の述べるような、「解離的」な)ギャルゲーが誕生するのは、そういう複数化においてだろう。
一回一回のプレイヤーの体験は固有のものである──あるいは、プレイヤーの欲望としては、毎回のプレイを「一期一会」と見なしたい、少なくも目の前のキャラに「萌え」ているあいだは天秤にかけるような真似はしたくない。あるいはまた、作り手としては、プレイヤーがどのヒロインを(いちばん)好きになっても、そのヒロインのエンディングを独立し完結した運命的必然的な「真のエンディング」と見なせるように仕立てたい。もちろん、これだけなら実現は難しくない。たんに現実的な設定で恋愛モノをやればいい。
だが一方で、個々のヒロインとの恋愛(小さな物語)をいわゆる感動系のシナリオに仕立てるには、より「大きな物語」との関係が要る。要するに背景がいる。どうも「大きな物語」という言葉の用法に自信がないわけですが、要するに、感動的と世評の高い『To Heart』のマルチのシナリオなら、「人間とロボット」的な、彼女のシナリオ専用の背景がある(そして他のシナリオでは顧られない)。
だが『痕』なら、各ヒロインとのシナリオの背景事情は緊密に関係付けられ、伝奇SF的なストーリーなり柏木家サーガなりを全体として構成することになる。
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既読スキップについては、「微細な変化を効率よく体験する」ためのものじゃないんですかねえ。未読部分で止まるから。
分岐直前でセーブ、なら話はわかりますが。しかしセーブはフラグの状態に応じて行われるから、「シナリオ的には全ルート共通(ほぼ)の部分だけど、実はここで決定的に分岐している」ということもある。まあゲームによって事情は異なってくるわけですが当然。
「共通ルート」における同一性と差異は、なかなかに微妙な問題だと思うわけですよやはり。
▼ ゲーム的快楽については、「鍵開け」に着目した論考がひとつ思い当たりますが、かなり昔ですねこれ。最近は確かにあまり見かけない。『鬼哭街』がアリになってるのが世の中です。
それはそれとして、「整合性」に関する議論でこれを思いつかなかったことを、深く恥じる次第。
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続き。
さて、目の前のヒロインとの進度に応じて「過去」を思い出す、というのがつまり、プレイヤーと主人公(佐藤心によれば「視点キャラ」)の内面が乖離することを防止するための方策である、というのはいいね。
ちょっと長くなるが、astazapoteから引こう。
《ギャルゲーを他のジャンルから際立たせる要素とは、「攻略対象となる女の子の数と同じ数だけのシナリオが同時に並行的に展開するというシステム」、この一点に尽きる。プレイヤー の意思(どのキャラにどれだけ惚れ/萌えているか)をイベントのクリア状況という形で絶えずチェックし、主人公(プレイヤーキャラクター)の行動が乖離し独り歩きすることを防ぐことで、プレイヤーが彼に感情移入し恋愛を擬似体験することを可能にするために新たに創出されたこのシステムこそ、 ギャルゲーをギャルゲーたらしめる要訣なのである。(略)
このように言えば、僕がギャルゲーという語で指し示しているのが、(略)『センチメンタルグラフティ』である事は明らかだろう。(略)全12人の女の子たち(略)が、全国各地に分布しているため互いのことを知りさえせず、従って各シナリオが一切交差しない完全な平行線を描いているという点。大体普通に考えたら、東京在住の高校生が休日ごとに北海道から長崎までを飛びまわってデートに明け暮れるなどという気が狂ったシチュエーションは絶対に出て来ない。それが出て来た理由はただ一つ、複数シナリオの平行展開というギャルゲー特有のシステムを極限まで純化したためである。つまりキャラクターの地理的な疎隔とは、各シナリオを物理的に断絶するための手段だった訳だ。第二に、主人公が女の子との思い出を最初はすっかり忘れていて、デートを重ねるごとにそれを思い出してゆくという展開。これも子供時代の記憶を呼び出して「せつなさ」を演出することが主眼なのでは決してなくて、ギャルゲーの主人公(プレイヤーキャラクター)が初めは誰にも惚れておらず、プレイヤーの選択を反映して徐々に内面を形成してゆかねばならないというシステム上の制約を受けて導入された物語だと言うべきだろう(なお、そのうち論じようと思う『Kanon』はこの点に関するもっとすごい徹底化の事例だ)。》
ただしこの「乖離の防止」は別の「解離」を生む、というべきだ。ようするに、あるヒロインのシナリオ(ギャルゲーとはつまり「1ヒロイン1シナリオ」であるのでこの言い方が成り立つわけだが)を辿っている間はいいとして、しかしプレイヤーは貧乏性にも複数の分岐を辿ってしまうのが常だ。それを考慮するとどうなるか。
東浩紀は次のように書いている。
《……分かりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学ぶのである。筆者は以下、このような切断のかたちを、精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼びたいと思う。
……
……つまりここでは、普通に考えて、システムの特性が要請するドラマと、シナリオとして用意されているドラマの間に大きな齟齬が見られるわけだ。
……作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、そのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情移入し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾と感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。
このような解離的な心の動きは、もしかしたら読者によっては理解しにくいものかもしれない。》(東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、122-124頁)
ほとんど『Kanon』についてだけ書かれた文章である、そんな感さえある。アリストテレスの悲劇論が実はソフォクレス『オイディプス王』論だった、みたいなオチがそのうち付くかもしれない。これが『痕』なら個々のヒロインの物語は、より「大きな物語」に包摂されるようなものでしかない。これが『AIR』なら、あるヒロインが特権化される。『sense off』や『水月』はこの解離を設定レベルで合理化する(『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』が「セーブ/ロード」に対してやったように。ちなみに『YU-NO』の並列世界の分岐構成はプレイヤーの選択にかかわらず固定的だから、実は「分岐」に関しては手つかず)。『Kanon』にあるのは叙述の順番だけだ。解離は解離のまま残されている。「雛形」でしかないのかもしれないが。これを「解消すべき解離」と見なすべきかどうか、そのあたりは実のところわからない。
そして、僕は『君が望む永遠』を殆どプレイしていない(体験版を五分かそこいら)のであり鬱ゲーと言われてもどのへんかいまひとつわからないので(つまり発言すべきではない)のだが、まあ予測だけ立てておくと、この「解離」に耐えられない人のためのギャルゲーが、つまり鬱ゲーなんじゃないかなと。
これはつまり「プレイヤーの体験をいかに作品内に巻き込むか」という話である。
『Kanon』についていえば、ある分岐はいかにも有限個の組み合わせのうちの偶然的な一に過ぎないし何度でも再現可能なものだが、どのルートであろうとプレイヤーの体験は一回切りの固有なものであるよりない。だからここでは、どのシナリオでも「固有の感動」と呼びうるだけの体験が提供されればいいわけだ。いや、うまくいえないけれどね。こんな感じ? 偶然を必然化するだけの覚悟を受け手に植え付ける、というか。ただ、やはり複数回のプレイは「解離」を要請するといわざるをえない。だから解離をほっとけないと、『sense off』や『水月』みたいに、設定レベルでのフォローも入れたくなるわけだ。
で、他の分岐への意識、をそのままシナリオの水準に持ち込むことによって上記の解離を解消するのが『君が望む永遠』なんじゃないかと。
もっと言うと、『Kanon』にしろ『君が望む永遠』にしろ、「プレイヤーの体験」と「主人公の体験」の固有性のレヴェルを擦り合わせている点では同一なんじゃないかなと。まあこれも、「主人公への同一化と感情移入」の追求、という古典的な至上命題の言い換えでしかないが。
比較的、「固有である」という方向で擦り合わせると『Kanon』で、比較的「固有でない」というレベルですり合わせると鬱ゲー? つまり、プレイヤーの一回一回の体験自体は固有の再現不能なものだが、しかし現に他の分岐を辿れてしまう。そういう部分を作品内に巻き込んでしまうわけです。
正直どっちも、同じコインの両面なんじゃないかと、そう予想してみる。
以上すべて、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、「メタリアル・フィクションの誕生」第一回(『ファウスト』Vol.1、講談社)、佐藤心「オートマティズムが機能する」第二回(『新現実』vol.2、角川書店)から着想の大半を得ていることをお断りしておきます。
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えーと、リンク張りとかは後日。
>自分としては覚えがないんだけどなんかこの娘妊娠しちゃってるし身に覚えはないけど実はヤマシイところがないわけでもないし放っておけるわけないしっていうかこの娘のこと好きだしそんじゃひとつ責任取るか!」って話だよ。
ああ、それは実によくわかる話です。いやもう。ついでにいえばKanonは何より「思い出」についての話なんだから、事実の水準ではなく記憶の水準で語られねばなりません。余談だがこれがONEなら、astazapoteのONEレビューにもあったが「記憶」はむしろその虚構性を暴かれるようなものだし(長森とはいつ出会ったんだ?)、AIRなら「過去そのもの」が独立して挿入される。「思い出」(それはイコール目の前のヒロインとの関係だ)が最終審級となるのはKanonだけです。最終審級て。まあ伊達に思い出に還る云々を標榜してませんつーことで。
過去はひとりでは思い出せない。目の前の相手といっしょじゃなきゃ思い出せない、そんなことはいくらもある。
……
「過去」は何より「思い出された/語られた過去」であり、目の前の相手との関係性を前提としてのみ意味を持つものである。また、過去は自分ひとりでは思い出せないし、語るためには相手が要る。たぶんKanonにおける「過去」の扱いはそうしたものです。これが、目の前のヒロインの攻略進度に応じて主人公の内面を形成させプレイヤーとの距離を現ずる方策であるのはastazapoteに夙に指摘されているのだが(00/02/16、現在は削除)、こうした事態にリアリティを与えているのは、わたしたちの記憶のそもそものありようである、と言うこともできる。
《私たちが自分の過去の記憶(それも「すっかり忘れていた子ども時代のこと」をありありと思い出すのは、それを真剣に、注意深く聞いてくれる「聞き手」を得たときに限られます。「過去を思い出す」のは、(逆説的なことですが)、私と「聞き手」のあいだに、回想の語りを通じて、親密なコミュニケーションを打ち立てられそうな期待がある場合だけなのです。
とすれば、そういうときに私が思い出している過去というのは、「ほんとうにあったこと」なのかどうか、いささか心もとなくなります。
私たちが忘れていた過去を思い出すのは、「聞き手」に自分が何ものであるかを知ってもらい、理解してもあい、承認してもらうことができそうだ、という希望が点火したからです。》(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書)
そして、《それは別にラカンに教えてもらわなくても、私たちはみんな知ってる経験的事実だ。》(2月26日)。
でまあ、そのようにして思い出されたものが「過去の真実」であるかどうかは甚だ心許ないし、また真実である必要もないわけだ。重要なのは現在の関係性にとっての意味であって。
そしてKanonでは物語を所有するのはつねに少女の側だから、男の子が「思い出す」とはつまり女の子に想像的に同一化して(いやつまり相手の身になって)思い出す、ということになりがちである。この結果、もはやプレイヤーと主人公の内面の擦り合わせ、という次元の話では済まなくなる。まあ済まなくなるからどうなるかってえと、単に女の子の物語が語られるようになるわけです。ここから「男の子はただ見てるだけ」のAIRはそんなに遠くない。まあ、遠くないからといって、やりすぎではない、ということにはなりませんが。
……
それはそうと、《『エクリ』の誤訳をあげつらうのは「阪神タイガースが優勝しない」ことを本気で怒るようなもので、まともな大人のすることではない》(2月26日)ってのに当時は笑ったのだが、優勝しちゃうのであるなあ。
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スクリプトの実行による生成うんぬんなんて言い出せば、なおさら、われわれは、「祐一の過去」なんて個別に分岐した後で生起するものでしかない(ヒロインの側の事情もまた)、と知っているわけではないですか。
てっきり、こういう話になるのを回避するために「作品世界を客観的実在と見なす」とか「過去が遡行的に決定するのを認めない」という立場が出て来たのかと思っていたのだけれど。
ゲームの実際の進行に即していえば、「過去」なんてのは、分岐した後から遡行的に語られるものでしかない。共有ルートには含まれないファクターである。祐一の「失われた過去」は、ツリー構造でいうなら、枝の部分に個別にバラバラに生起するようなものでしかない。
あと、別ルートなのに同一のスクリプトが呼び出され実行されている(使い回し)場合と、どう区別できるのか、という話もあるわけで。
あるいは、共有ルートのうちにも、フラグの状態によってちょくちょく違うテキストが出てきたりもするわけで、そもそも共有ルート内でも厳密に毎度同じわけではない。
まあ厳密さをいえば、どこまでが共有ルートでどこからが分岐後か、というのもプレイヤーには漠然としかわからないのだけれど。
そんなこんなで、同じスクリプトが実行されているからとか、あるいはゲームの進行上は各ルート共通の根だから、というのは、「設定の整合性」には絡まない話だと思うわけですが。
ノベルゲームの歴史をいえば、『弟切草』の方が『痕』より先に存在したわけだし。マルチエンディングという形式にとっては、『痕』のように、ある特定の時点より以前に限ってのみ世界が固定されている、という方が不自然ともいえる。
個人的な記憶では、『痕』については、現にゲームが分岐し複数の世界をもっているのに、「ある特定の時点より以前の過去はすべて同一の世界」というのは、かえって呑み込めなかった覚えがあるし。千鶴さんに殺されるエンディングでは、このルートだと自分は殺人鬼だったことになってるんだな、と(勘違いでしたが)真っ先に思ったわけで。
あと小説に喩えるなら、書き出しの共通する連作短篇、くらいの捉え方をすれば、過去設定が一元化される必要はない。この場合、作品としての統一性は、「冬の街」「約束」「再会」「奇跡」といったモチーフによることになる。まあ、個人的には『Kanon』の第一印象はそんな感じでした。
マルチストーリー/マルチエンディングのゲームにとって、「ゲーム開始以前の過去の一元化」は、採択しうるオプションのひとつに過ぎません。それは、『パズルを組み合わせる面白さ』(『痕』的な)や、『鬱ゲー(への志向)』や『選ばれなかったヒロインの不幸』のために要請されるものでしかない。
たしかに『Kanon』へのユーザーのリアクションの内に、上のような要素への欲望を見ることはできる。しかし、共有ルートからツリー状に分岐する、というゲームの形式からは、作品内時間でゲーム冒頭部に相当する時点より以前での世界の固定、という作品内設定は導きにくいだろう。
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たとえば『みずいろ』と『Kanon』の差なんて、たかだか、回想シーンが入るのが冒頭か中盤か、というだけだ。
いやほら『みずいろ』だって「ヒロインによって主人公の過去が決定する(異なった過去をもつ)」のにかわりはないし、各分岐における主人公の過去を整合させることは不可能です。というかそもそも整合させようとする発想が生じえない。このあたりは、やったことのある人には自明でしょう。『みずいろ』を知らない人は適当なレビューサイトで展開の概要を調べて下さい。
つまり、「ゲームシステム上の分岐」を「世界の分岐」(パラレルワールド的な)と同一視してしまうから、異なる分岐における過去を一本化して整合するのしないの、とか、現在の選択により遡及的に過去が改変されるの、と、ややこしい話になるわけで。
『Kanon』の叙述の順序を時系列順に並べ替えると『みずいろ』になって、叙述の順序と設定を連動させれば『sense off』なり『水月』になる(んじゃないか)、という話。
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作品世界を客観的実在とみなすなら、そもそもゲームシステム上の「分岐」にすぎないものを、(客観的実在的な)世界の「分岐」と同一視するのは、かえって奇異におもわれます。客観的実在世界という「見なし」と並行世界的な説明を導入するなら、「共有ルート」は単に複数の並行世界の「見分けがつかないほど似ている部分」でしかなく、各ヒロインのシナリオへの分岐後というのは「自分がいまどの並行世界にいたのか明らかになる」ということだと解釈する方が僕には自然におもえます。
もちろんこれは「作品世界を客観的実在と見なす」「SF的な並行世界という考えを導入する」「自然という言葉を用いる」という三つの前提の上での話であり、ぼく自身はこの立場をとりませんが。
▼ 杞憂だと思うのだが書いておく。
死エロの8/6の、「ヒロインによって祐一の失われた「過去」が決定する」ってのは、単に「作品表現上そうなっている」という以上のことを意味していない(できない)。ギャルゲーにおいて主人公の「過去」なんて、分岐したあとで問題になるようなものでしかない。
「仮に」とか「って言われたほうが僕としてはまだ読める」と指示されている部分は、筆者の見解に含まれない。そういうのをカギカッコ抜きで常識とは呼ばないだろう。
ヤマウチさん自身は一貫して、Kanonをあくまでフィクション/ギャルゲーとして話をしているわけだし。
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私信っぽく。
>久弥直樹氏がまず基本プロットを立てて、麻枝准氏がそこの大雑把な設定とテーマから解釈を拡大してって、という順序ではないかと思われるので、OP、EDの曲についての考察を久弥氏担当シナリオの延長線上でやってくのは無意味じゃないと言いたい。もちろん、その中間には麻枝氏担当パートが挟まってくるでしょうけど。
で結局僕は麻枝准の話しかできないのでそのへんから攻めてみたい。「という順序」を仮定して、「その中間」を経由しつつ。無意味かどうかは読者が決めてくれるでしょう。
さて『Kanon』という作品のなかで、「奇跡」という語はさまざまな文脈で使われる。「名雪がこの時間にちゃんと起きてるなんて、奇跡だ」という使われ方もある。例の「「起きないから、奇跡って言うんですよ」は有名だが、祐一にいわせれば「起きる可能性が少しでもあるから、だから、奇跡って言うんだ」ということになる。栞はほかに、自殺しようと思ったけれど結局できなかったことを称して「奇跡」と述べる(「ひとしきり笑ったら…腕、切れなくなってました」「もしかしたら、これが奇跡だったのかもしれませんね…」)。
で、巷間いわれる「奇跡による救済」についてだが、「あゆの奇跡による救済」といわれている部分では「奇跡」という語が登場しないことは指摘されてよい。唯一それと示唆しうる例は、あゆシナリオ末尾の『たったひとつの奇跡のかけらを抱きしめながら…』というフレーズだが、これも何を指すのかは実のところ明瞭でない。
というか実質、栞シナリオのみをもとに、「奇跡による救済」と『Kanon』という作品全体が括られがちだ。
久弥直樹のシナリオでは、「奇跡」という語はむしろ意図的に日常会話に多用され、「日常的な、奇跡のようにおもえる偶然」と「ありえないはずの状態」と「超常的な救済」の全てにカヴァリッジをもつ。また、確定的な意味をもつことをむしろ排されている(祐一が「奇跡」といえば香里は「奇跡ってそんなものじゃないのよ」と否定するし、栞のいう「奇跡」は祐一によって否定される)。むしろ久弥直樹は『Kanon』という作品において、前述の三つが区別されないような世界を築き上げている、とみることができる。
だが麻枝准はそのような精妙さを理解しない(『ONE』とちょうど逆のパターンだ)。
雪駄氏は《奇蹟というのは一瞬のイベントの事だと思い込みがちだが、あゆや真琴の例を見てもらえば分かるように、そういう物だけでなく、危うい状態で成り立っている「状態」の事 を示す場合だってあるのである。》(『Kanon論考:「奇蹟」から考えるKanonという表現』)と述べておられるが、私見ではこれは麻枝准による「奇跡」の解釈を後追いしたものだ。
《「今、相沢さんは、束の間の奇跡の中にいるのですよ」
「奇跡…」
確かにそれぐらいの言葉を持ち出してこないと、見合わないような状況だ。》(真琴シナリオ)
という部分は、月宮あゆの設定と「奇跡」という語を麻枝氏なりに結び付けて解釈した結果だろう。あゆシナリオの『たとえそれが、どんな奇跡の上にあったとしても、俺はこの街であゆと再会した。』というフレーズを「状態としての奇跡」と解釈することもできるが、むしろここでは、「たとえそれが、どんな」と巧妙にぼかされていると見るべきだ。繰り返しいわねばならないのは、
《俺たちは今、いくつもの奇跡の上に立っていた。
名雪と、この街で再会できたこと…。
名雪のことを好きでいられたこと…。
そして…。
秋子さんの穏やかな微笑みも…。
名雪の暖かな笑顔も、奇跡…。
たくさんの奇跡と偶然の積み重ねの上で…。》
といういいかたの「奇跡」と、あゆの生霊と再会するという「奇跡」は、久弥直樹においては区別されてはならないのではないか、という点だ。そもそも「奇跡のような偶然」(という感覚)は「超常現象的な奇跡」と「日常的な偶然」を等置しなければ出てこないので、その原的な感覚がそのまま作品化されている、と見るほうが素直な受け取りといっていい。作品が曖昧にしてるものは曖昧なまま受け取りましょう、ということで。敢えて分けると作品とは違うものができてしまう。ぶっちゃけ、Kanonにおける奇跡、なんて、われわれの日常的な了解そのままでいいんじゃないですかね。異なっているのは作品内の現実法則であって。
ついでにいえば「奇跡のための犠牲」という観点が明示されているのも麻枝准パートのみである(「奇跡を起こすには、ふたつの犠牲が必要だってわけだ」「記憶と、そして命」等)のだが、これは余談。
さいごに、涼元悠一氏のインタビューから引こう。
《言ってみると『Kanon』って、世界観に穴が開いてるじゃないですか。どうやっても、どうしようもない穴が開いていると。
でも、その穴があまりにも美しい穴なんですよ。それで愕然としたんです。この穴は偶然に開いたものなのか、それとも人為的に開けたものなのか見分けがつかない。もし人為的に開けたのなら、この人たちは天才集団だと思ったわけです。
それで『このスタッフにぜひ一度会って本当のところを確かめてみたい』と思ったのが、Keyに入ろうとした一番の動機かもしれません》(『ARIA』Vol.1、フォックス出版)
この「穴」とは、たとえば作中での「奇跡」が何なのか、どのようなものか、奇跡によって何がなされ何がなされなかったのか、どれが奇跡なのか、ということが明確には分節されない、そうした部分についても言われたことだろう。種々のガジェットやシーンは、因果関係によってではなくイメージ的に接合される(DALさんの分析のとおり)。そういえば『ONE』で「何よりもそれはイメージだ」と浩平に永遠を語らせたのは久弥直樹ではなかったか。
あーなんか全然予定と違ってしまった。『風の辿り着く場所』につなげるはずだったのに。あとDALさんの請売りになってる気がこう。
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『ためらいの倫理学』を読んでいるのだけれど、そこで思い出しているのは『ジャイアントロボTHE ANIMATION』であったりする。「幸せは犠牲なしには得られないのか?」。草間大作はそれを否定する。だが現に犠牲は生ずるよりない。だからかれは叫ぶのだ、「それが大人になるということなら、ぼくは大人になんてなりたくありません!」
かれとて犠牲が不可避だということはわからないではないのだ。不可避だからといって正当化されるわけではない、だが「犠牲は不可避だ」と述べてしまえば犠牲を正当化してしまうことになる(遂行的には、パフォーマティヴには)。かれはそれがいやなのだ。かれの「否」は「犠牲が避けられぬという事実」よりも「犠牲が必要なんだ、という主張」にむけられている。もっといえば、人の死を「犠牲」として意味付けることに。
さてKanonは時に奇跡の安売りだなんて言われるけれど、そこで描かれる奇跡は犠牲を要求もすれば独自の論理というかルールに限定されたものでもある。このあたりは考察サイトが山ほどあるから各自あたってみてほしいのだが。泣きゲーの呼び名にたがわず、Kanonという作品の後半部は、まあおおむね、メランコリックな悲しみや絶望やらにどっぷり浸されているといっていい。それに比べれば、ラストの救済なんて、ささやかと称していいくらいだ。
だからこそあーだからオレにとっては『どんな想いも叶う日が来る』ってのは「犠牲」を正当ないし必然とみなすわけにはいかないから、というバランス取りじゃないかという気がするわけです。「いつかはそんな日が来る」ってのは「本当はそうあるべき/あれかし」ということで。で、作品内の描写に反してこの語がすんなり受け取れるのは、あくまで「悲しいこと」はあくまで「悲しいこと」であり、それ以上の意味付け(正当化や必然化)が行われてないからじゃないか、と思ったり思わなかったり。