WHITE ALBUMの河島はるかにからきし弱い僕としては、やはりまじかる☆アンティークのなつみシナリオに手を出すべきであるという天啓が(具体的にはこのへんから)下る。ふわふわとした流れに任せた恋愛関係の雰囲気を醸し出しつつ以下略、とかいうのが効いたらしい。
売り切れていた。
しかたないので「いちょうの舞う頃」でふわふわする。この主人公、朴念仁というか心ここにあらずというかそのくせ不意にものすごくクサいことを言ってしまったりするし、つまりただでさえふわふわと現実から遊離してるようなところがあるわけですが、まあ秋で思春期ともなればこんなもんか。
加えてギャルゲーってのは概ね惚れるのは向こうが先なので、こちらがわの恋の実感(キャ)ってのは遅れる、しばらくは実感のないままいろいろやっている、とかそういうことになるわけだけど、そういうときってなんかふわふわしてますよね。よねって言われても困りますか。
やがてのっぴきならない実感がやってくる。自分の心が気がつけばこんな所まで来ちまった戸惑いとともに。思えば遠くへ来たもんだ。
現実の話じゃないですよ。
まあ早い話が空気に流されるような感覚がえらく好きですってことで。空気といってわるければ、人間の主体性が発動しそこなうような必然性の感覚。そこに填りこんだが最後、引き返さなきゃと思っても引き返せないし、できるのはせいぜい、せめて風呂場に乱入してアクシデンタルなかたちで愛し合って(キャ)少しばかり出し抜いてやろう(何をだ?神を?)、といったことくらいです。行き着く先は変わらないとしても。せめてもの矜持として或は単に自己欺瞞を避ける誠実さとして「これでよかったんだ」とも言わずさりとて否定もしない、いいことなのかわるいことなのかわからないけど続けていく、そういう終り方ですね。ってなんではるかシナリオの話になってますか。
僕の萌え心情はおおむね受動性と敗北主義によるらしい。
もちろん受動的であれるのは主観においてだけで、実際は何か行動するにしろしないにしろ、自分でやったこととやらなかったことには責任がある。まあ引き受けようが逃げようが最後まで言い訳かまそうが一概にどれが正しく間違っているとも言い難いのであるが。同じことやっても別物になっちまうのが作品ってもんだし。
受動性のぬるま湯とナルチシズムに浸りつつも主観的には主体的に責任取ってる気分だけ味わってやるぜ! とよくわからない決意のもとWHITE ALBUMをプレイ中。さあ、オレサマは頑張って決意する(だけ)。皆のもの、あとはよろしく。
あいての女やら雰囲気だか気分やらに流されるばかりの徹底した受動性と、「せめて責任はとろう」といった部分でのみ発揮される積極性。もとよりたいした連続性も必然的経過も表にはあらわれないまま、結果を引き受けるというかたちでのみ発揮される「決意」。経過ないし気分はゲームシステムの関係上断続的に浮かび上がるのみだ。これはこれでリアルといっていい。
どこかで歯車が狂い、いつとも知れずボタンはかけちがえられ、戻れたはずの道はすでに遠く、手には覚えのない荷物。そして責任とは、自らが望んだ(意志/意図した)わけでも予期したわけでもないものに対してこそとられるべきものである。せめてもの引き受けのほかに、できることは何もない。
「痛み」を支えるのは、ひとつにはそうした(みようによっては身勝手な)認識だ。それはもはや人間が(自分が)強くも美しくもあれないことを、輝けるものたちへの道が許されていないことを、あるいはかつて自明に安住していた無邪気な必然の支配する(起こるべきことしか起こらない)世界との別れを、告げ知らせる。そして決意はいまここにいる場所で生きてゆくためのものだ。世界が一旦壊れたあとでの、かつての世界を(擬似的に)回復しないことの決断。
ひとりの人間に対する具体的な罪の意識といった実質を欠いているのは確かだ。感傷でしかないといえばそうだし、だいいち自分の痛みにしか興味がない。だが他人の痛みを判断することはすでに傲慢であるといった過度な内面性を、べつに誠実さといったわけでなく単にありうる心のはたらきとして読み取ることもゆるされるだろう。むろんそれを自己陶酔と呼ぶのはまちがいでないが、作品がそれを描いていけない理由もないし感動してはいけない理由にもならない、人は正しいものに感動するばかりではないから。
少なくとも、単に世間的な良識に追随せんがために最終的に「前向き」に描かれてしまうだけの「悩める主人公」の安易さとは一線を画す。
ゲームにおいて「主人公に共感できない」ってのと「システムが肌に合わない」ってのは等価であると思うがどうか。いや「等価であるべき」ってんじゃなくて単に事実として等価であらざるを得ないんじゃないかと。
ところで、人間の精神がリアリティを感じ取る仕組みには個体差がある。ようするに、どんなものを「リアル」と感じようが自由である。ある人間にとっては「説得力を持たせるために不可欠」な要素(たとえば「必然性」や「連続性」)が、べつの人間にとっては、単に人が安心するために必要なだけの「つくりものの嘘」、ということになるのだが。
人間の「実感」ってのはじつは「信念」に支えられている。「因果律が存在する」とか「客観的に世界は存在する」とか「昨日の自分と今日の自分は同じ人間である」とか「意志は人間の行動を支配する」とかそうしたものはみな「信念」といっていい。ようするに固定観念である。たとえば人はものごとが必然的に動いていると思えるときに「リアルな実感」を感じるわけだし、キャラクターの心情変化や行動には原因が、客観的な説得力をもつ事象や経過が原因として見出されなければならないと思うのだが、少し自分をふりかえれば世界も人間もべつにそういうものではないことは自明だろう。幼児が自分を実際以上に有能だと思い込むのに似て、われわれもまた願望にすぎないものをリアルだと思い込む。
現実とはクソゲーのようなものだ。
げ、恋愛ゲームZEROのリンク集に入れられてるじゃん分類は[評論系][ONE/Kanon/フロレ]だってどうしようココまだそれらしいもの何にもないよ! すみません。
あしたやってやるさあ。あしたっていつのあしたよ。
セラフィムコールLD-BOXの解説って卯月鮎氏が書いてらっしゃるのか。気になる。
いきなり「不確定世界の探偵紳士」が気になり出す。その気になりやすいのかもしれない。
現在入っている情報は「剣乃節が大爆発」「後半はひたすら料理を作ってくれるゲロ甘な展開」「けっこう歯ごたえのあるAVGだ」の3つ。どれが気になるのかは秘密。ところでK氏って「萌え」と「ゲーム」に特化しつつ「物語」がまるで欠けているあたりがなんか面白いと思うがどうか。
K氏っていえば信じられないくらいアナクロな設定&世界観と信じられないくらいアナクロなドラマと信じられないくらアナクロな男女観とか家族観と何より全般に漂うどうしよもなくイタいセンスでノスタルジイをかきたてずにはおかない存在なのですがひょっとしてあれって若いモンには別に普通に新鮮だったりするのかしらん。いや、好きだけど。ノスタルジイに弱いし。
今回はネタがはなっからノスタルジイげなあたりが好感がもてますな。トラブルに巻き込まれる才能がある主人公、持ち込まれる難解つうか意味不明な依頼、ってあたりで何かこう、往年の平井和正か菊池秀行げな。ああ気になる。だったら買え。でもHD増設が先か。
まあ気になるってのはつまりミントとかいうロボっ娘が出てくるってことなんですが。無表情なロボ娘に料理を作ってもらってしあわせがる、といった人としての誇りとか美意識とかそういうものから解放された世界が俺を待っているのでしょうか。右手におたま左手に泡立器でいったい何をするつもりなのか考えるだに夜も眠れません。
ウィンディからの耳よりじょーほー。freewebでは拡張子を.shtmlにするとSSI可らしい、とのこと。情報ありがとうございますはちさん。
せっかくなのでここにリンク貼らせていただきます。広告ウィンドウも出ないのか。
流行りもののDNA診断はこんなん出ました。こういう人、嫌いじゃないです。
ドーパミン低いっすかー。千菜美ちゃんには全くないんだっけ。
で診断の続きによると、なんか人とはちょっと違って少なからず母親を感じさせ絶対的に自分を認めてくれてきっちり几帳面でいついかなる時もこちらを立ててくれるタイプが好みらしいです。セリオ?
Memories Offやってた頃、みなもちゃんってさー何がいいって、ひとつには折り目正しいところで、もうひとつはほぼ確実にオトコを立てるところかな、とかわりと自己分析してみたりしてたわけですが。まあ、たとえば後輩で眼鏡っ娘だったりするとそういうタイプは珍しくもないか。男心をくすぐるツボを心得てるねお嬢ちゃん(byアルバート・マクドゥガル)、とモニターに向かって言ってたらその場に居た野々原さんに嫌がられました。正月だったかな。
ところで二次創作上のセリオってのは割とアシモフのロボットなわけですが、それでちょっと思いついたことがあったので少し。
たとえば、アシモフのロボットと人間はどちらが「上」だろうか。人間の歴史をまったくそれと悟られぬまま支配し、陽電子頭脳の円滑な機能(三原則の円滑な運用)のためなら人類という種をつくりかえることさえするかれらはそれでも「人間のため」にそれをやっているわけだが。人間を傷付けず守るには、ロボットが人間を支配しつつ、なおかつ人間には自分の自由意志を信じさせておく、というのが唯一の方法であるとしたらだ。
「われはロボット」一冊は、ロボットが自身の性質をまったく変えぬままに、論理のある奇怪な自動運動の結果ついには神となってしまう過程を描いたものだが、こうした点さえふまえずに「アシモフのロボットとは違って」なんて言辞が平気で出てくるような状況があるとしたら非常に苛立たしい。個人的には、たとえば『グッドラック 戦闘妖精雪風』の「対等な生存競争の相手」というコンセプトはさほど興味をひかない。それは交換可能な立場にあらかじめ身を置いてしまうモノローグ的な認識である(要するに悪口です)といえる。もちろん『グッドラック』の真髄はべつにある。
以下は蛇足。
アシモフのある短編で「守るべき人間」の判断力を持たされたロボットは「もっとも優れた人間」とはつまり、他人を傷付けず、他人を害わない限りにおいて他人の言うことに従い(たとえば子供の命令に従うことがその精神的成長に害を及ぼすのであれば、彼はその命令に従わないであろう)、また明白な理由なしに自分を粗末にしない人間のことだと結論づける。つまり、もっとも優れた人間とはロボットのことであり、ロボットにとってもっとも守られるべきはロボットである。長期的には、そのようなロボットが人間にとってかわられねばならない。
スティーブン・バイアリイは最も優れた人間の市長かさもなければロボットであり、両者を判定することも不可能ならさらにはそうしなければならない理由もない。
三原則はすべてを説明する。ロボットだけが人類の未来をにぎっているとすれば、ロボットがきょう10人を殺すのは明日に100人を死なせないためであり、今年人類の大半を死に至らしめたとしても、それは一万年の未来に人類を滅亡させないためであるのかもしれない。つまりは「神のなさることは(長い目で見れば)常に正しい」。ロボットが三原則に従っていないことを証明するには、ほとんど無限の未来を観測することができねばならない。
より短期的には「鋼鉄都市」において、R(ロボット)・ダニールが暴徒に銃をつきつけるシーンを挙げてもいい。むろん彼は発砲しない。弾は抜いてあるがそう知っているのは銃を持ったダニールだけでなくてはならない。彼がまさしく三原則に従っていたことがわかるのは、すべてが終わった後でなければならないのだ。
塩沢兼人がおっ死んじまったよ。
イラ・ジョリバ。イデオンのナレーション。マ・クベ。アバルト・ハウザー。サー・バイオレットあるいはビッグゴールド。R・田中一郎。物星大。ルイ・ナポレオン。ハンドラー。プリンス・デマンド。ムウ様。塞臥。森蘭丸。オストラコン。パウル・フォン・オーベルシュタイン。十三代目五右エ門。レイ。ランダム・ハジル。レオナルド・メディチ・ブンドル。直接耳にしたのはそれくらいか。こうして並べると、それだけか、という気がする。もっとありそうな気もするし、実はそんなに知らなかった気もする。
まあさーアニメの声優としてはとっくに死んでたと思うわけさ。いかにも塩沢〜って役しか回って来なくなったときすでにさ。あるいは、いかにも塩沢〜な役としてゲームに出てくるようになったころすでにさ。そういうのを喜ぶ連中は嫌いだったし、いっそ本人も居なくなっちまえって思ってた。悲しいことは悲しいが今更たいした損失じゃないと思う。大仰に悲しんでみせたり惜しんでみせたりする連中はいっそ腹立たしい、と書くのもやはり自家撞着というものだがええいくそ。もっとも、ジジイになるまで声優やってれば青野武みたく面白い声が出来上がった可能性はあるが。ジジイになった塩沢兼人がどんなふうに喋るのか聞いてみたかった気もする。
いいからあんたも飲めよ。
某所の掲示板で「あの壷はいいものだ〜」と叫びながら階段から落ちたんでしょうか、という書き込みがあって、それ読んでなんとなく救われた気分になった。妙な話だが。
ピュアガールを買う。まあ「AIR」発売にむけてKeyスタッフ5人(むう)のインタビューもあるしってことで。もっとも、今更予想外のことが出てくるはずもなく。あえていうなら、お客様のことを考えてますって態度に失望した。客など知るかついて来れるやつだけついてこいやりたいようにやる、って嘘でも言っておくのがそれこそお客へのリップサービスってもんでしょうに。
あとは、otherwiseのコメントは元長征木氏が書いててそれ読んでますますsence off気になってたり、西E田氏インタビューの作為的なのに笑ったり(「アニメスタイル」読めってさ)、いや記事としては正解だけど。啓蒙になるっしょ。
更科修一郎氏のN.C.P.はとうとうONE。次回で終わりなの? 残念。一年間ありがとうございました。ご健康をお祈りさせていただきます。
しかし今回はいかにも字数に収まりきらない印象。プレイ直後のテンションをいくらか呼び起こして、ようやくそれなりに掴めたけれども。ここで父性だの母性だのと言われているものは僕にはつまるところパーソナリティーの語源であるところのペルソナ(仮面=役割)であるようにおもえる。
ところで、平山氏の「ONE」感想は次のように書き出されている。
「悶えます。これは悶えます。ただ、悶えかたが変です。 ふつう、ギャルゲーの女の子に対して抱かせたい感情というものは 主に「かわいい」です。しかし、このゲームでは 「かわいそうだからなんとかしなくちゃ」になっています。 まったく本人達にギャルゲーを作っている自覚があるのかどうか すら疑わしい作品です。よって、媚びて感じられるところは ほとんどありません。」
実のところ、言われるまで気付かなかった。まったく普通に萌えていたし、それを媚びではないとはあまり思わなかった。実際、そのような感性は不健全ではないかとに言われて初めて気付いたという体たらくだ。平山氏の健全さは僕には好ましい。
オンナノコの心の傷に乗じて云々、というパターンはありふれている。男にとって都合がいいというより女性陣に都合よく鬱積の捌け口にされている気がしなくもないが。
ONEに関しても、「それぞれの障害を克服していく少女たち」に浩平のそれをリンクさせ重ね合わせた、という図式がしばしば用いられるのだが、これはいささか一足飛びに表現論に行ってしまっているきらいがある。要するに作品の外から論理を持ち込んでいる。これだと、せいぜいが主人公のトラウマを免罪符にしたといった程度の(貧しい)感想を容易に生む。
あくまで作品内部の論理として、そうした点を、同病相憐れむといったことでしか他人との回路を築けない「病の深さ」と見る更科氏の見解(この通りの表現をなされているわけではないが)はあまりに正しい。
実のところ、Memories OffなりSilver Moonの方が、女の子は終始つんぼ桟敷であり、浩平の視点は最後に消え去って「回復」が自身によって語られることはないONEに比べればずっと、克服なり成長なりといった点についてはまともな取り組みなわけで。ようするにONEは過去を打ち明けともに乗り越え立ち直るといったことはないわけさ。正確には立ち直る姿さえ主人公にはない。館山緑は思わずそれを描いてしまうわけだが。
だからONEより主人公が前向きで評価できる、というどうも個人的に違和感のある感想が出るのもわかるのだが、ここではむしろ「成長」図式による言い当ての不十分さを感じると言っておく。(続く)
ROOK-RESS(006):----ぼくらは、あの戦争を生き延びちゃいけなかったんだ。:EOS
弾き返されてきたナイトの言葉には、一瞬のためらいがあった。
KNIGHT-RESS(007):言ってろ。この星が真っ二つに割れても、おれだけが生き残ればおれは満足だよ。:EOS
ROOK-RESS(007):ビショップもナイトも、ぼくも、みんなそうだ。荒野をうろつく機械歩兵と一緒だ。発狂したキングと同じだ。それ以上だ。寄るもの触るもの皆殺しにするくせに、ぼくらは、ぼくらだけじゃいられないんだ:EOS
KNIGHT-RESS(008):----おれは違う。
秋山瑞人『鉄コミュニケイション2 チェスゲーム』(電撃文庫)再読。なるほど『猫の地球儀』に登場するモチーフはおおむね出揃っている。意識できない部分で、というか意志に反して「ひとりではいられない」ということや、ある種の話題はつきつめれば血を見る、また場の会話の流れが制御不能で行き着くところまで行ってしまう点とか。あるいはハルカの「自分の話」とか。不可能な望みを抱いてしまうとか。以前読んだときちょっと引っかかった部分が「猫」読んだおかげでわりとスッキリしたかも。
とりあえずナイト−幽、イーヴァ−楽、ルーク−焔かな。いや実際には相当に混じり合ってるのだが。ハルカ? 震電に決まってるじゃん。棒倒すし。
自分の内側と外側(世界)に、思い通りにならない意志によるコントロールを受け付けない他者性がひそんでいる、というあたりがキモかな個人的に。それを何と呼ぶかはどうでもよくて、まあ血の記憶だろうが無意識の願望だろうが構わない。
そして、ナイトのように誇りと意志を強行しようが、幽みたく認めてしまおうが、どちらかがより幸せであれたり賢明であれたりするわけではない。ひとがどのようであれるか、ということは、そのひとにとってはむしろ意識や心理を超えた他者的なことに属する。
ところで、『ブライトライツ・ホーリーランド』のスレイマンなんかは、自らの精神の弱点になりそうな部分を記憶もろともに消去することによって「俺は俺だ」ですべてが済む究極の近代的自我を実現してしまっている。こちらでは孤独に耐える自立した自我なんてのはテクノロジーの問題にすぎない。これはこれで好きではある。意識の勝利といった図式を掲げたいところだが、彼は自分のやってることの原因が意識的なもの(自由意志)かなんて興味ないでしょ。むしろそうした原因=根拠さえ否定するから。これこそ真の自立。
いま僕のなかでは「あおい」と聞くと「蒼依」としか変換されません。酔ってるときなんか特に。
混乱したのはたぶんこっちの責任じゃないかと。>中将氏。
ベランダの構造を呪いつつペンキ塗り。ここが往来ならトム・ソーヤーごっこができるのに。
夕、来松組と合流。月山純米吟醸は別に普通だった。
ベランダのペンキを剥がしているうちに一日が終わる。こういう作業をしていると「空手バカ一代」で芦原英幸が自転車のサビを落としているシーンを思い出しますな。しません。
『猫の地球儀 焔の章』を読み返してます。クリスいいやつです。ギャルゲー系萌えキャラっつーより水玉(螢之丞)系ツボキャラなんですが。「アド・バード」とか。
2巻読んでからだと、いったい俺は何を読んでたんだ、と思うことしきり。焔視点の幽の描写なんか、その背後にあるものがすでに透けて見えるようになってる分だけ痛いこと。ONEの茜シナリオを2回目にやった状態っつーか。こういう比較すると怒られますか。
